## 資本主義リアリズム
「この道しかない」
かつてサッチャーは言った。この道にどのような問題があるにせよ、他の道よりは相対的にましだということである。
それから40年以上経ち、新自由主義からの転換といったフレーズが立憲の枝野から、また自民の岸田からすらも類する言葉が発せられた。もはや新自由主義など誰も信じていないのである。にもかかわらずそれは惰性的に継続され、いつまでもはびこっている。サッチャーの言葉に示された認識の強固さを物語っているといえるだろう。
若者たちがいつか閉塞を打ち破り社会を変えていくのだろうか。しかし、たとえば、新自由主義以降の音楽であるヒップホップにとって弱肉強食的な社会は批判の対象ではない。ヒップホップにおける" to get real "という言葉は、不安定な雇用や貧困、格差、腐敗、そうした諸々を自らが生き抜くべき現実として直視し、冷酷に肯定することを意味しているという。彼らはゲットーからの脱出を目指すが、それは個人的な成功により達成されるものであって、社会変革を志向しているわけではないのである。かつてのロックが既成秩序への挑戦という性格を強く持っていたことと対比するならば、単純に世代的な交替に期待することは楽観的すぎるように思われる。
「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」。こうした状況、資本主義がどのようなものであれ受け入れるしかないのだと僕らが考えているこの状況を、マーク・フィッシャーは「資本主義リアリズム」と呼んだ。
## 抵抗の難しさ
資本主義リアリズムにおいては革命がもはや現実的なものではないゆえに、反・資本主義的態度すらも、むしろ資本主義を補強するようにしか機能しない。
プロダクト・レッドやエコバッグ、リサイクル製品、反・資本主義的な表現を含む映画などのことである。資本主義の問題について知っていたり、多少の配慮をしていたりするということ、またそうしたことによって問題が解決可能であるという幻想を持つことは、免罪符となって消費行動に安心をもたらす。地球規模の不平等や搾取、貧困、暴力、環境破壊などの惨状があるのだとしても、悪いのは私ではない。私はそれらの悲惨さについて心を痛め、エシカルに消費しているのだから。しかしフィッシャーはいう。「悪や無知を幻影的な『他者』へと振り払うことで否認されるのは、私たち自身の、地球規模にわたる圧政のネットワークへの加担である」と。これはエシカルな消費者たちのことばかりを言っているのではない。左派の運動家もまたシニカルに現状をまなざすことで、資本主義システムへの加担を否認しているのだ。
## リアル(現実界)–リアリティ(現実)
反・資本主義のスタンスが資本主義に加担してしまうならば、資本主義への抵抗はどのようにして可能なのだろうか。
ラカンはリアル(現実界)とリアリティ(現実)とを区別した。リアリティとは、経験的な事実あるいは必然性として現れるイデオロギーの最も高度な形式のことだ。対してリアルとは、抑圧されなければならないような、その抑圧によってリアリティが形成されるような、表象不能のトラウマ的空洞を意味している。もちろんここでリアリティとは資本主義リアリズムの示す現実のことである。
精神分析が教えるのは、いくらそれがはっきりと必然性をもって現れているのだとしても、資本主義社会に立ち現れる現実もまたイデオロギーであるということである。したがってフィッシャーが示す戦略は「それを一種の矛盾を孕む擁護不可能なものとして示すこと、つまり、資本主義における見せかけの『現実主義』が実はそれほど現実的ではないということを明らかにすること」によって「資本主義の提示する現実の下部にある、このようなリアル(たち)を暴き出すこと」である。
## 現実の3つの裂け目
フィッシャーは戦略に基づき、現実の3つの裂け目を指摘している。そのひとつは環境問題である。環境問題は前述の通りマーケティングに取り込まれてしまっているものの、持続可能性の概念と資本の成長とはその本質的な部分において矛盾しており、SDGsがふりまく幻想にもかかわらず、環境破壊は資本主義にとってやはりトラウマ的なのである。この点についてはすでに他で論じられているということでフィッシャーは指摘するに留めている。日本において同様の論点を示していた者としては斎藤幸平が記憶に新しい。
ふたつ目は精神保健である。フィッシャーによれば「資本主義リアリズムは、精神の健康をまるで天気のような、自然な事実として扱うことにこだわってきた」という。しかし、フィッシャーがオリバー・ジェイムズ『利己的な資本主義』やリチャード・セネット『人格の腐食』を参照しながら論じるところでは、精神的な病の増大は新自由主義と相関しており、多分に政治・社会的なものなのである。
新自由主義のいう柔軟性とは労働者にとっての(給与と雇用の)不安定性のことだ。労働者たちは不安定性の常態化した状況を生きながら、同時に野心と、野心が叶うという幻想を掻き立てられる。いわゆるアメリカン・ドリームである。しかし実際には野心が叶うことはほとんどありえないのだ。また資本主義は家族生活を矛盾に晒す。親から子供と過ごす時間を奪い、夫婦に耐え難いストレスをかけながら、しかし同時に不安定性がもたらす精神的苦痛を鎮めるための抗不安薬としてまた家族を必要とするのである。こうした状況で病むことは個人の脳内物質のバランスの問題として片付けられるべきことではない。むしろ多くの人々が精神を病んでいくこうした事態は、資本主義が本質的に機能不全であることを示しているとは言えないだろうか。
最後は官僚主義である。新自由主義の信奉者たちはスターリニズムとともに官僚主義を非効率なものとして厳しく非難してきた。しかし新自由主義政権によってもたらされたのは、お役所的な形式主義的業務がむしろ増大するという事態だったのである。
これは不思議なことではない。成果主義においては成果を評価する必要があるが、そのために参照されるのは成果そのものではなく成果の表象なのである。したがって私たちの労働力は成果そのものを生み出すことよりも成果の表象を操作することにより切実に費やされることになるのである。競争的な資金を獲得するため、あるいはマーケティングのため、私たちはいつも膨大な報告書や申請書、また調査や監査の準備に追われることになる。あまりにくだらなくどうでもいい形式主義的な仕事であるが、資本主義の特徴によってここから逃れることはできない。「資本主義では、形あるものはみな広報へと消えてゆく」のだ。資本主義リアリズムは資本主義の効率性を掲げているが、実際の資本主義の姿はこうした不合理に満ちているのである。
## 新たな抵抗の足場
フィッシャーの檄文は手厳しい。
「左派の悪癖のひとつに、いつまでも歴史的な討論を繰り返すこと、自らが真に信じる未来のために計画を立てて準備するのではなく、クロシュタット[の反政府蜂起、一九二一年]や[旧ソ連の]新経済政策に立ち戻り続けるという傾向がある。従来の反・資本主義的な政治組織が失敗したからといって失望する必要はないが、それでも失敗の政治学、打ちのめされた周縁性という快適な立ち位置への、ある種のロマン的な愛着には背を向けて前に進まなければいけない。」
フィッシャーは前述の新しい政治的領域を左派が陣取っていくべきなのだという。ポスト・フォーディズム体制への移行に際して、フォーディズム的労働から逃れたいという労働者たちの欲望を資本が利用したように、新自由主義が満たせなかった人々の欲望を新たな足場にするのだ。
官僚主義の大規模削減を掲げ、それを左派のものとしなければならない。あるいは精神保健の問題を政治化し、常に自己自身へと向け変えられてきた怒りや不満を外へと、つまり真の原因である資本へと方向づけなければならない。
もはや新自由主義はかつての推進力を失い「がらくた」となった。にもかかわらずそれは依然としてはびこっており、勝手に終わってくれる様子はない。しかしそこに生じたイデオロギー的空白はやはりチャンスなのである。歴史の終わりを読み替えるのだ。